浄瑠璃山東方院 国分寺
kokubunji
- 宗派
- 真言宗智山派
- 住所
- 〒315-0013 茨城県石岡市府中5-1-5
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- 電話
- 02992-2-2827
ひとくちメモ
天平13年(741)年聖武天皇が五穀豊穣・国土安穏を願い、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、
ここ常陸国分寺の建立は、天平勝宝4年(752)で百済王敬福が常陸守に任ぜられたとあります。
寺域は東西約270m南北約240mの大変大きな規模で、金堂、講堂、中門、回廊、仁王門や七重の塔などの礎石が
昭和52年、56年の発掘調査で明らかになっています。
しかし、平安中期の平将門の乱(939年)など度々の焼失、再建を繰り返し、
現在の本堂は国分寺跡に明治43年に筑波から移設したものです。
入口の中門跡から右側の参道を通ると薬師堂が建立されており、左側の参道を行くと
旧千住院山門があり、さらにその奥に国分寺本堂が建立されています。
境内には杉などのほか桜の木が多くあり、春の4月8日に花まつりが行われ多くの人で賑わいます。
参拝した日は夏の暑い盛りで蝉の鳴き声が溢れ、境内に入った途端、多くの蝉が体に飛びつき驚きました。
また、薬師堂の右手に都々逸坊扇歌堂が建てられています。
扇歌は文化元年(1804)久慈郡佐竹村磯部(常陸太田市)に生まれ
江戸へ出て音曲噺の大家、船遊亭扇橋に弟子入りし、寄せの上座に上がり、評判も高く、さらに京、大坂方面を巡業し都々逸を広めた。
高座で聴衆からのなぞかけを即座に解く頭の回転の速さで評判となったが、当時の政治・社会を批判し江戸追放となり、
姉の嫁ぎ先である府中(石岡)に身を寄せていた。
上は金、下は杭なし吾妻橋 (江戸追放のきっかけとなった川柳)
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