雷電山西向院 照光寺 shoukouji
ひとくちメモ
本尊は阿弥陀如来で由来説明看板によると 常陸大掾高幹(第14代)を開祖とし、良善上人を開山として、応安7年(1374)に鹿の子の地に創建されたと伝えられる。 約200年後の第十二世良夢上人の時、大掾氏が佐竹義宣に滅ぼされ、寺院は兵火にあって焼失した。 その後、佐竹義宣の叔父左衛門尉が円通寺より称往上人を十三世として招き寺の再興をはかり、鹿の子よりこの地に移した。 敷地はもと府中六名家のひとつ香丸氏の屋敷跡といわれている。 現在の寺紋は松平家の三葉葵だが、以前は平氏の菩提寺に因んで九曜星であった。
墓所に「常陸府中藩主松平家墓所」があります。 府中松平家は初代水戸藩主徳川頼房の五男頼隆を祖とする。 元禄13年(1700)頼隆は、幕府から陸奥国岩瀬郡長沼など18箇村、常陸国新治郡府中など19箇村合計2万石を与えられ 「御連枝」と呼ばれる水戸徳川家の分家四藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つとなった。 府中松平家は本家と同じく定府制であり、上屋敷は江戸小石川にあった。代々播磨守を世襲し、十代頼策のとき明治維新を迎えた。 歴代藩主の墓地は小石川宗慶寺にあったが、大正15年(1926)照光寺に移した。
市民に時を知らせた寺で梵鐘は戦時中供出してないが,特に親しまれたお寺です。 幕末の「水戸天狗党」は藤田小四郎らを中心にと筑波山に同志を募り挙兵しました。その数は最終的に数千名になったといわれています。 府中(石岡)は筑波旗揚げ直前の謀議の場所で最初は60名ほどの人が集まっていましたが小四郎人気は高く、 これに賛同する若者の数が増えていったとのことです。 照光寺の旧本堂の柱にこれら若者のはやる気持ちからつけられた刀傷のあとがあります。 その後、照光寺は解体され、その刀痕が残る柱の一本は、石岡市民族資料館に寄贈され、 他一本は、大洗の願入寺の開基堂の柱として使用されています。