雄山寺 oozanji
ひとくちメモ
手子生(てごまる)地区の西端の位置に伽藍があります。 「豊里の歴史」によると 始め王讃寺と称し、菅谷家の菩提寺で手子生城主菅谷為久が建て、その後戦国後半期に菅谷家が再び城主となるや それを再興して雄山寺とあらためたものであろう。 現在檀家もなく荒廃しています。 残されている板碑は菅谷為久が第十代豊田為基の供養碑として建立したものと言われています。 豊田氏は為基の子善基の時、手子生の出城を小田氏の家臣為久に譲って 自らは本豊田にその拠点を遷しています。
手子生(てごまる)地区の西端の位置に伽藍があります。 「豊里の歴史」によると 始め王讃寺と称し、菅谷家の菩提寺で手子生城主菅谷為久が建て、その後戦国後半期に菅谷家が再び城主となるや それを再興して雄山寺とあらためたものであろう。 現在檀家もなく荒廃しています。 残されている板碑は菅谷為久が第十代豊田為基の供養碑として建立したものと言われています。 豊田氏は為基の子善基の時、手子生の出城を小田氏の家臣為久に譲って 自らは本豊田にその拠点を遷しています。