永壽山無量院 照西寺 shousaiji
ひとくちメモ
24号線の南側に広がる手子生(てごまる)地区の中央の位置に伽藍が建立されています。 伽藍と24号線の間は手子生城があった場所です。 境内の由来記及び「豊里の歴史」によれば 創建は室町時代の始め、応永5年(1398)に念仏勧進の道場として覚阿浄円和尚により開山されたと伝えられています。 本尊阿弥陀如来座像は室町時代の作で、寄木造りで金箔が施してあり、 本尊の胎内に鎌倉時代に作られた衿羯羅(こんがら)童子[1]の一木造りがある。 旧本堂は元禄8年(1695)に建立され、その後、何度かの改修を行ってきたが、平成22年(2010)に新しく現在の本堂が建立されています。
手子生城は、正治年間(1199~1201年)に、常陸守護職八田知家の子・知重により築城されたと言われています。 以後、小田氏の支城となり、天正2年(1574)佐竹氏が小田城を攻撃し陥落すると、小田氏は手子生城に籠って戦ったが 天正16年(1588)に和議により陥落しました。 城址には立派な石碑と案内碑が立っていましたが案内碑は東日本大震災で壊れています。
境内には手子生地区畑地基盤整備事業工事中に発掘された諸霊を祀る碑(平成8年)が建てられています。
[1] 不動明王の隋侍像