岡田稲荷神社 okadainarijinja
ひとくちメモ
国道6号線の貝地交差点から南の丘陵地に建立されています。
この地は石岡城(外城)跡で神社の前に案内看板があります。
説明文を記します。
「建保2年(1214)常陸大掾(ひたちだいじょう)を継承して、常陸国衛において政務をとっていた大掾資幹(すけもと)は
鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、この地に居館をかまえた。これが石岡城の起こりといわれる。
その後、大掾氏の拠点として城郭が整備され「税務文書(さいしょもんじょ)」には、南北朝動乱期の
大掾高幹(たかもと)の居城として「府中石岡城」の名前が書かれている。
高幹の子詮国(あきくに)の代には、大掾氏は常陸国衛を拡張して府中城(現在の石岡小学校内)を築き
本城をそこに移したため、石岡城は「外城」と呼ばれたという。
近世後期に書かれた地誌類には、大掾氏が府中城に移ったあとの「外城」の城主として
石岡某・札掛兵部之助・田島大学などの名前があり、天正18年(1590)の大掾氏滅亡とともに
外城も廃城となっている。
現在は、かっての城主であった札掛氏を祀る札掛神社と堀・土塁の一部を残すのみである。」
札掛神社は天正18年に佐竹氏によって滅んだ大掾浄幹を弔い建てられたものです。 稲荷神社はもとは外城の鬼門除として祭られ、館宮稲荷大明神ともいわれ、天保6年(1835)に岡田稲荷神社と改められ 城主札掛氏の一類である岡田家が祠守(しもり)をしています。