細川稲荷神社(谷田部) inarijinja
ひとくちメモ
当初は細川谷田部藩神社内にあり、藩主及び藩士が代々永きに渡り信仰の社でした。 五代興虎公(藩主1728-1737)の奥方は笠間藩主牧野英成公の娘でその信仰により笠間稲荷を分祭されたとのことです。 明治時代の廃藩置県で神社がなくなりましたが、昭和5年(1930)に明野線が県道3号線になった時に現在地に建設されました。 昭和7年(1930)の台風により御神体を除き破壊され、昭和19年(1944)に再建され、平成20年(2007)に老朽化により新築再建されました。
谷田部藩陣屋の玄関は、谷田部藩二代藩主細川興昌(1604-1643)によって築かれた陣屋の玄関として使われていたものをここに移したものです。 谷田部藩の初代藩主細川興元は熊本五十四万石大名細川忠興の弟にあたり、関ヶ原の役、大阪夏の陣に参戦し、 その功により下野茂木(現在の栃木県茂木町)と常陸谷田部とを合わせて一万六千二百石の大名となりました。 細川興昌は15歳で谷田部藩二代藩主となり谷田部に陣屋を構えました。(1619年) 敷地面積は約6800坪で堀をめぐらし、現在の谷田部小学校校舎とほぼ同じ位置に約120坪の陣屋がありました。 棟には藩主細川氏の紋章(九曜紋)が残っています。